『サルトルとボーヴォワール:哲学と愛』

女性差別を受けていると感じたことのある女性はどれくらいいるでしょうか?
私はさっと記憶を辿ってみても、そうした場面を思い出せません。「男だったら楽しかったのによー」と思ったことは数多くありますが、それは大体女性のめんどくささを感じた時。例えばアラサーとなった今だと、周囲の結婚や出産の報告を聞いて焦るときなどです。「男だったらなー、もっと長い間遊べるよなー」と思っちゃいますね。
欧米諸国から遅れをとっていると言われる日本でも、女性の選択権は認められている現在。「結婚し母になるのが女性として然るべき」という無言の圧力を感じてはいても、なるかならないかは女性の自由意志に委ねられています。

『サルトルとボーヴォワール:哲学と愛』

フェニミズムの重鎮、シモーヌ・ド・ボーヴォワール

「人は女に生まれるのではない、女になるのだ。」と言う名言を残したフランス人女性のボーヴォワール。1908年に生まれ、女性が大学に通うことが稀だった1920年代後半にパリ大学にて哲学を学んだ彼女(専攻はライプニッツだったらしい。ひえー)。そこでジャン=ポール・サルトルと出会い、二人は「契約結婚」します。彼女は生涯サルトルのパートナーとして、そして作家・哲学者として生きた女性です。

ボーヴォワールは「フェミニスト」としてのイメージが強かったせいで、あまり興味を持てなかった女性でした。私はフェミニストが苦手です。みんな気が強そうで恐いんだもん…。それに私自身、女性差別を受けていると強く感じたことがないので共感しにくいところがありました。
ですが、2006年公開(フランス)の『サルトルとボーヴォワール:哲学と愛』を観て、彼女のイメージが大きく覆ったのです。

ボーヴォワールだって、一人の乙女だった?


ボーヴォワールとサルトルが結んだ「契約結婚」というのは、期間を決めた契約としての結婚であり、お互いの自由恋愛を認めたパートナーシップということ(らしい)。つまり「私たちはパートナーですけど、あなたが誰と寝ようが構いませんよ」という関係です。
…凡人の私には「契約結婚」の目的がわかりません。自由恋愛がしたいのなら、結婚などしなくてもいいのでは?と単純に思うのですが、これは二人に関する資料を洗ってみないと理由がわからない。宿題にします。
サルトルはかなりのプレイボーイでした。ボーヴォワールを口説いてきた女の子(つまりバイの子)まで手篭めにしているんだから、大したもんです。そしてぶっ飛んだ婚姻関係に同意したボーヴォワールも、さぞかしアバンチュールを好む女性だったのかと思っていたのですが、映画で描かれる彼女は全然奔放な女ではありませんでした。

彼女はサルトルと他の女性との関係に嫉妬し、苦しんでいました。様々な女性と自由恋愛を楽しむサルトルとは対照的に、彼女が恋をしたのはアメリカ人男性たった一人。関係を持った男は他にもたくさんいたのかもしれません。しかし映画では、最後までサルトルに翻弄された女性として描かれているように感じました。

「契約結婚」って意地だったんじゃないかなあ

もしかしたら、サルトルとボーヴォワールは知識人としてのプライドを捨て切れなかったのかもしれません。
若い時分に打ち立てた、センセーショナルな男女の在り方。慣習や常識にとらわれない関係を実演してみせるのは、若者としてのパフォーマンスのようにも見えます。しかしその後は、予想しなかった心情や状況に振り回されたに違いありません。でも、やめようにもやめられないプライドがあったのではないか、私はそんな風に思います。

女性が自由に学ぶこと、男性の支配から抜け出すこと、女性が自由意志を持って生きることが、20世紀前半のフランスではなかなか叶いませんでした。ボーヴォワールはその状況に憤り、自由な女性として生きようとしたわけですが、自身の中に根付く女性性をどのように捉えていたのでしょう。嫉妬、不安、独占欲、幸せ、安寧、それらをどのように感じていたのでしょうか。